すずわん日記

40代でサラリーマンの限界を感じました。これを良い経験として、この後の人生を楽しく豊かに過ごせるように考えたことを書いていきます。

復帰から一年、色々思うコト、やったコト

職場復帰からちょうど一年経ちました。

http://www.suzuwan.com/entry/2018/08/29/081112

この一年で何か自分は変わったかなぁ。いや、変わろうと思って焦って過ごしてきたけど変わらない。やっぱり自分は自分だな。

生まれついてのオッチョコチョイ、忘れっぽい、集中力が無い、という御三家を兼ね備えた自分。

長続きしない、いつも何か違う事をボーッと考えている、周りに対する反応が鈍い、という御三卿も合流して、頭の中はいつもグチャグチャ状態な自分。正常な状態なのか自分でも疑いたくなる事がシバシバ。

それでもよくまぁこれまで会社はソコソコの評価をしてくれたり、妻が結婚してくれたものだと思います。妻には感謝だし、会社の評価に対しては、キミタチ目が節穴か、と言いたくなります。こういう意識を自己肯定力が低いって言うのでしょうか。

なんて思って過ごしていました。

でもこのままではイヤだ。思い通りに行かないからと、諦めて腐って過ごす事はソロソロ楽しくはないのです。ストレスなく笑って過ごせるようになりたい。

春から梅雨の時期は体調が悪くて気分が乗らなかったのだけれども、ここ1ヶ月はまあまあな感じ。気分も上向きなので、今さらながら仕事のやり方をちょこっと変えてみました。

色々と評判を探して、この本を実践。

若い頃、調子の良い時期は似たような事をやっていた記憶があります。仕事を細部化した上で優先順位をつけて分類し、それを集中して処理して行く。ただ昔自分がやっていた事と違うのは「今日来た仕事は明日やれ」の原則。仕事の総量は変わらないのだろうけれど、これで余計な事に「反応」せず、手を止めなくて済みます。緊急要件は別管理が必要ですが。 一日の仕事の単位「タスク」を増やさないのがポイントです。

そしてもう1つ、面倒くさいと思ってなかなか手をつけられない抵抗感のある仕事に対して逃げないように自分を騙すテクニック。具体的には1つのタスクを処理する時間を20分なら20分と区切り、20分経ったら終わってなくとも必ず止めて次のタスクに取り掛かる。これをタスクの数だけグルグル繰り返す。

この終わらなくても止めてしまうという後ろ髪の引かれっぷりがミソで、ノリノリのちょうど良いタイミングで次のタスクに移らなくてはいけないもんだから無性に続けたくて仕方なくなる。だから進む。ただし最初に取り掛かる為のトリガーは仕事の細分化。これをやるのがとっても重要。細分化するから、とっつきやすくなる。

全体として一番何が良い効果だったかと言うと、本来やるべき事から逃げなくなるのでフォローのキツイ仕事(これが抵抗感のある仕事)が進みストレスがガクンと減る事。効果はテキメン。これをやらないと逆に面倒な仕事が残りストレスは溜まるばかり。

自分がこの本を読んで作りつつある仕事の「システム」は逆に時間がかかる事もあり、まだまだ改善の余地はありますが、この本そのものは余計な事は書いてなくホントに実践の為のエッセンスだけが書かれています。良書でした。

んー。そして他にもこの一年でやった事。ワンコと一緒に泊まる旅をしてみたり、日記を3月から毎日毎日継続出来たり、ちょこっと俳句を勉強してみてコッソリとコツコツ作り溜めしてみたり。

瞑想・ヨガをやって気持ちとカラダをスッキリしてみたり、kindle青空文庫で読んだ事のない名作を黙々と読んでみたり、通勤時間をウォーキングの時間に変えてみたり。などなど。

ブログ冒頭の後ろ向きな呟きは撤回します。何が変わってきたかサッパリ分からないけれど、これだけ色々と動いているので何かは変わっているのかも。そう感じて次の一年を過ごしてみようか。

そろそろ仕事モードと思いきや

あと1ヶ月ちょっとで、休職からの復帰後1年が経過します。

http://www.suzuwan.com/entry/2018/08/29/081112

長いようで短いこの1年。日常生活にはほぼ支障が無くなり、心療内科への通院も終わって半年経ち、今や健全なアタマになったかと言うと、そうでもないみたいです。

周りの同僚達が苦労をしている姿を眺めていると、自分のアイデアを与えて仕事を進めてみたいとか、困っている人を助けてあげたい、という気持ちが湧いてウズウズすることはあります。

でも・・・そんな事に手を出したら「任せた!」とか言われ、また一人で仕事を抱え込んで潰れてしまうイメージが湧き出て怖くなってしまい、仕事を積極的に引き受けもせずに引っ込んでしまうのです。

何なんでしょう、この感覚は。

怖くない、やれば出来る、とココロの中で自分を叱咤して前を向こうとすればするほど、少しの障壁があれば頭が真っ白になったり、イヤな事を思い出して同じ事をグルグルといつまでもループして悩んだりします。そうなってしまうと頭痛はするし苦しい。やっぱり過去に色々あって自分の身体はもはやそうなってしまったので、これ以上前に進む事が難しい、なんて考えます。

でもこれはっ!

アドラー心理学で言う、原因論と目的論なのでは、と思い直しました。

以前読んだ「嫌われる勇気」。

http://www.suzuwan.com/entry/2018/03/22/135557

1年半前に書いた記事ですが、どうやらその時の自分は原因論と目的論に納得してませんww。

まぁその論が何かという事を、例として引きこもりの友人が何故外に出られないかを論じているくだりがありましたので、読み返してみました。

哲人 あなたは彼が外に出られなくなった理由は 、どこにあると思いますか ?

青年 詳しいことはわかりません 。ご両親との関係 、あるいは学校や職場でいじめを受け 、それがトラウマになっているのかもしれない 。いや 、もしかしたら逆に甘やかされて育ったところがあるのかもしれないな 。まあ 、彼の過去や家庭の事情までは窺い知ることはできません 。

まぁ普通はこう考えますよね。でも。。。

哲人 ご友人は 「不安だから 、外に出られない 」のではありません 。順番は逆で 「外に出たくないから 、不安という感情をつくり出している 」と考えるのです 。

青年 はっ ?

哲人 つまり 、ご友人には 「外に出ない 」という目的が先にあって 、その目的を達成する手段として 、不安や恐怖といった感情をこしらえているのです 。アドラ ー心理学では 、これを 「目的論 」と呼びます 。

これです。以前読んだときは正直ピンと来ませんでしたし、この引用だけではわからない方も多いのではと思います。

でもね、頑張りたい&でも怖い、という境界線を越えたり戻ったりしている今ならわかる気がします。

試しに過去の出来事に怯えている「フリ」をしている自分に問いかけると、正直にこう答えやがった。

「アイツはホントは出来るけど、体調不良で能力が全開にならないんだから仕方ない、そう言う事を思われたいんだ。そういう生活が楽なんだ」と。

あー、こりゃダメだ。こんな事は反省して来週からもっと前にガンガン前に進むのだ!

・・・なーんてワケありません。やっぱり今のキャパを超えて仕事を抱え込むのは身体にも精神にもよろしくない。今やるべき事は、初心に返り小さな仕事、中ぐらいの仕事を地道にこなす事。その1つ1つの目の前の仕事に、無駄な先行きの不安を持たずに集中すること。

そしてその積み重ねで自信を取り戻す事。

それをしている間は、困っている人を自ら助けに行こうなんて大それた事は思わない事。そんな事は余裕が出来たらやればよい。人の課題は人の課題。

冷たいようだけれとも、こんなところではないでしょうか。

ここで一句

最近、俳句のアプリを見つけたので使ってみました。

五七五オンライン

五七五オンライン

  • toru sugitani
  • ゲーム
  • 無料

一人でも俳句を入力できるけど「みんなで読む」モードにすると、ネット上でアプリを使っている人とマッチングをし、上の句、中の句、下の句をそれぞれ交互に読み合う事が出来ます。

例えば、一緒に詠む人をマッチングし、

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こんな感じにどこの句を読むかを指定をされて、

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待っていると相手が上の句を入れてきます。

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「わたしはね」ですか。早速俳句っぽくない感じ。このアプリ、意外と利用者が多くってマッチングで待つ事も無いですが、季語を使う人があまりいなくて川柳になってしまう事が多いです。しかもマジメに作って来る人も少ないのである。それならそれで自分はこんな感じに。

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それに対して、相手が下の句を入れて出来上がり。

 

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うーん、川柳でしかも面白くない( ̄O ̄;)

こっちの方がまだマシ。

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スイッチオフ。ゆらゆら流れにまかせる事

不確実で答えがない宙ぶらりん状態に耐えられるか?

ネガティブケイパビリティ。

不確実な答えの出ない状況を受容し、それに耐える能力、らしい。

この前何かのテレビで見てこの言葉に興味を持ったので、本を買って読んでみた。

ネガティブ・ケイパビリティ  答えの出ない事態に耐える力 (朝日選書)

ネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える力 (朝日選書)

 

ネガティブケイパビリティは精神医学の分野で発表された言葉だけれども、その言葉を初めて使ったのはイギリスの詩人ジョン・キーツさん。

彼は26歳の若さで亡くなったが、困窮に耐えて、病気に耐えて、それでも愛する人を思い続けて詩を作り続けた人でした。

不確かさの中で事態や情況を持ちこたえ 、不思議さや疑いの中にいる能力──。しかもこれが 、対象の本質に深く迫る方法であり 、相手が人間なら 、相手を本当に思いやる共感に至る手立てだ

「不思議さや疑いの中にいる能力」

能力と言えば、普通は何かを成し遂げる力の事を言うのだろうけれど、ネガティブケイパビリティはそうじゃなくて、不安定な「その中」にいる事の出来る能力だという。

何もできそうもない所でも 、何かをしていれば何とかなる 。何もしなくても 、持ちこたえていけば何とかなる

とか、

どうにもならない宙ぶらりんの状況でも 、持ちこたえていけば 、いつかは好転するはずです 。それも 、私たちの脳に 、希望に向けてのバイアスがかかっているからでしょう 。

なんて事が書かれています。

そしてネガティブケイパビリティは、早急に答えが出なくても問題となる「それ」を追求し続け、その結果「それ」をより深く知る事が出来る。例えば「それ」の対象が人間であればその人間を深く知る能力としています。

ジョン・キースはシェイクスピアはネガティブケイパビリティを持っているとしました。だからこそ他人がどのように考えているかを表現した素晴らしい作品を作れると。

詩人、小説家、精神科医・・・

詩人も小説家も精神科医も、結論を出すに為に確たる確実な手法がある職業ではない点が似ている存在としています。精神科医であれば答えのない患者の様々な事情を一緒に考えるし、小説家であれば100%主人公がゴールに向かって意のままに動くわけではない中でストーリーを書いていく。どちらも答えのない状況に耐えて前に進む。なのでネガティブケイパビリティの要素があるんだとか。

例としてシェイクスピアの作品ではリア王と3人の娘の度重なる裏切りや不幸な出来事、また作者は紫式部にもネガティブケイパビリティがあるとし、源氏物語の現代だったら不貞な出来事の数々を淡々と述べていました。まぁその辺は本としてはちょっと中弛み感はあったけれども、ネガティブケイパビリティについては少しわかったような気がする。

ネガティブケイパビリティ体験済み

嫌な事があっても抗わずスイッチオフをして受容し状況に耐える。振り返ってみれば、20代、30代の頃はこのスイッチオフが比較的簡単に出来ていた事を思い出した。嫌な事があったらすぐにスイッチオフ。自分の気持ちを振り返らずに、ただただ目の前の出来事に向き合う。それが解決出来ても出来なくとも。そのうち嫌な事は過ぎ去ってている。そんな反応が出来ていたように思う。

そして、そのスイッチオフをする時は、司馬遼太郎の「関ケ原 下巻」のあるシーンを思い出していたりした。

関ケ原(下) (新潮文庫)

関ケ原(下) (新潮文庫)

 

・・・戦い序盤。優勢な西軍の島左近隊に崩された黒田長政隊が退却した後、次に現れたのは東軍の田中吉政隊3000人。そこに島左近隊が突撃。

この突撃が尋常のものでなく 、士卒の顔はことごとく発狂寸前の相を帯び 、死を怖れる者が一人もない 。 「相が 、そろっている 」田中兵部大輔吉政は 、馬上でおぞ毛をふるった 。

もう超ノリノリになって突撃してくる島左近隊をみた吉政は「ヤバっ!」となったのです。

吉政はおもった 。吉政は年少のころ銹槍一筋をかかえて近江の小豪族である宮部善祥房に身を寄せて以来三十余年のあいだにかぞえきれぬほどの戦場を往来し 、敵味方の兵気を見る点ではたれよりも老練であった 。 (こんな相手とまともに戦えば怪我が大きくなるばかりだ )と思い 、あとへあとへと押されてゆく自隊の兵をいっさい叱咤せず 、力を抜き 、自然にまかせている 。そのうち吉政の隊は二 、三丁も退却してしまっていた 。

士気が違う、勝てない、被害が出る、これはヤバイと思い、彼の経験値での最善策が自然にまかせるという判断になったのだろう。

そこで吉政、スイッチオフ。

このままでも東軍が勝てそうなので、属しただけで良しとしよう、と。実際、東軍は勝利。

これを今にして思えばネガティブケイパビリティだったと考えるのです(勝手に)。

頑張らなくても得られる事がある

若い頃は山があったら登る、川があったら泳ぐ、なんていう前向きな生き方を理想としていました。けれど歳を重ね、鬱、脳梗塞など色々な経験をして自分を大事にしようと悟った今では、山があったら裾野を迂回し遠くから山を眺めながら進む、川があったら渡れる橋を探して下流までどこまでもテクテク歩いてみる。橋が無かったら今度は上流に向かって歩いてみる。その余分と思われる道程の中で、人を知り地理を知り文化を知る。

そんな感覚で生きても良いじゃない。

最後に、意外な効能を発見。

何かに直面して困った時、南無阿弥陀仏、と同じように、ネガティブケイパビリティ、、、、と唱えてみたら、少し気持ちが楽になった。

未知のことを読む=固いものを食べる

「読みの整理学」を読んだ。

テーマは未知を読む、って事かな。

「読み」の整理学 (ちくま文庫)

「読み」の整理学 (ちくま文庫)

 

この本はかなり以前に買って一度読んだけれど、内容を覚えていなかった。印象にも残っていない。なぜ買ったかも記憶にない。

でも最近要らない本の整理をしていたら出て来て、もう一度最初から咀嚼して読んでみようという気になった。

で、結果。面白い。

未知って何かというと、自分がわからない言葉、表現、文章構成、世界観、出来事などなど。これらを頑張って読んで理解する事で、読む力を鍛えましょう、という事。

過去、本屋でタイトルだけを見て面白そうと思って買って、何だか読みづらかったり難しすぎたりして途中で読むのを諦めた本もたくさんある。

日本語訳されている海外のSF小説や、何故だかクラウゼウィッツの戦争論とか、買った理由は分からないけれど、本棚に読み切らずにちょこんと置いてある。

諦めてしまう原因は、単語や文章の構成が頭に入ってこないから。頭に入ってこなければ面白くない。しかしそれは、まるで栄養があるけれども固い食べ物を「食べづらいから」と嫌いになるように僕が避けていただけなんだな。何度も理解するまでガツガツと読んで、その文章を読み直して理解する事が読書百遍。

反面、世の中には簡単に頭に入ってくるけれど全然内容がつまらない本もある。これはスカスカのチョコモナカジャンボの皮だけを食べている感じ。こういう本に慣れてしまった読者を本の中では「オカユ読書」と読んでいる。

僕は本を読むのは好きだけれど、今までは歴史小説だとか戦記物とか時代小説とか、テーマが個人的に受け入れやすく、読みやすい文章の本を多く読んできた。

自分が「慣れた」小説はとっても面白くて読みやすいが、もう少し未知のことをガツガツ読んでやろう、というモチベーションが「読みの整理学」を読んで得られた。今度読みづらい良書を手に入れたら諦めずに読みきってやろう。

もう一つ、面白いと思ったコト。

頑張って読み解いて理解した内容が、本の作者の意図しないものになる結果もあるんですって。そしてそれは作者にとっても意外で喜ばしい結果なんだと。作者が思いもよらなかった別な解釈をされる事で、その作品はまた成長するという事らしい。

今までの読書は、作家の言いたい事だけを一生懸命に理解しようと思って読んでたんだけれど、そうじゃなくてもよい。自分の感じた事を結論にしても良いんだ、と思ったら、読書という世界がもっと自由で広がりのあるものだと再発見した。

体調が悪い時期なのです

今月は全般に体調が悪い。

ほぼ毎日、あちこちの関節が痛く、身体のアチコチの肌がチリチリと針で軽く突かれているようなしびれがあり不快。ダルさも加わり椅子に座っているのも耐えられない。先々週はツラくて半休を取り、先週は15時半で会社を上がった日があった。

去年5月31日のブログにも、同じ体調不良を記事にしている。春のこの時期と体調不良は何か関連があるのかな。そうそう、過去ブログを読んでみたら、この痛さがあったので、産業医から復職も止められて様子を見ていたのだった。

今年も記録しておこう。

これはシェーグレン症候群なのか何なのか。診断された人の話を読むと、動けないくらいにツラいし口や目の渇きも酷そうだけれど、僕の場合はまだまだ軽い方。仕事も出来ているし、遊びも出来るならばそれで良しとしようか。

診断をされて薬を処方され、気持ちが楽になりたい、とは切に思うけれど、その反面、この体調不良がある限りは仕事で無理をしないという気持ちがあり、また周りもやっと体調を理解してくれるようになったので、良い方向に考えればブレーキにもなるのかな。

最近、体調が良い時はもう少し仕事を頑張ってみようか、という気持ちもないでも無い。

でもね、結局は一人でいる事、一人でやる事の多い今の職場。休職前とあまり環境は変わっていない。頑張ろうにも助け合うメンバが近くにいないので、下手に頑張ったらサポートもなく自爆の可能性大。なのでちゃんと仲間と頑張れる職場だと認識が出来たら、もしくはそういう職場に巡り会えたら頑張ろう。

今は無理をしない生活をしているので、定時には退社し、ワンコにご飯を与えて、妻と一緒にあーだこーだと話をしながら夕飯を食べて、ワンコの夜の散歩をし、ビールを少し飲んで寝る。

この当たり前の事を繰り返す生活、とってもとっても幸せ。ある意味体調不良がもたらしてくれたのかな。大事にしたい。

ココロの治療薬と予防薬

最近良く読むブログに『ハッピーライフ専科』というブログがある。はてなブログを書き始めの頃に何となく読書登録をしたが、その後あまり読むことは無かった。

しかし最近になり、生活リズムも精神的にも落ち着いてきてから読み直すと、ココロにスッと入ってくる記事が多い事に気づき、日々読んでいる。

今では、ぐわぐわ団と同じくらいお気に入り。

その中で普段からの気持ちの持ちようとして参考にしている記事が3つある。

1つ目は、この記事。

事実は1つ、考え方は2つ。2つの考え方とは良い捉え方、悪い捉え方の2つ。どうせ事実は1つなのだから、それを悪い方向に考えるのではなく、良い捉え方を選びましょう、って事。まぁ常に前向きな選択をしましょう、というハナシですね。

2つ目は、この記事。

誰と付き合うか、よりは、誰と付き合わないかが大事。なるほどね。これは自分の中には無かった考え方。嫌われたくないなど、集団の中で上手く振る舞う自分を保とうとする思いが強いと、どうしても波長が合わない人の波長にも合わせようとしてしまう。そんな事してたら幸せが逃げちゃうみたいです。

どちらも気持ちの持ち方の方法論ですが、ウツ病になったり落ち込んでる時は、カンタンには自分の気持ちを前向きには出来ないです。

そんなに簡単にスイッチオン出来るなら、ソモソモそんな病気にならんし。

そして3つ目。

2つ目をベースにした考え方。

嫌な人と無理に付き合う必要はないけれど、避けてばかりじゃ自分が成長しませんよ、って事らしい。この2つ目と3つ目をどこで切り分けるかがポイントです。さすがにそこまでは誰も教えちゃくれない。

自分自身を振り返って、どう判断すれば良いかを掘って掘って考えるべき課題ですね。

思い起こせば去年の今頃は、会社を休んで1ヶ月半ほどの時期。まだまだパニくっちゃっていて真っ白になった頭の整理が出来ていなかった。会社への復職後に徐々に徐々に治ってきて、冷静になってきたのはやっと今年に入ってからかな、って感じ。

冷静になった今ならば、受け入れられる考え方もあります。そしてこれらの考え方は、気持ちを整える治療薬と言うよりは、今後そうならない為の予防薬かな。あるいはココロのサプリメントかな。

常日頃から心がけて、自分のココロの中に常駐させていく事が大事。その結果、ココロに少しずつ耐性がついてくる気もします。

こういった前向きな考え方を教えてくれる本や文章は様々あるけれど、それを受け入れられるようにするには、まずは休んで頭の中をスッキリさせないと、と改めて思った次第です。