未知のことを読む=固いものを食べる
「読みの整理学」を読んだ。
テーマは未知を読む、って事かな。
この本はかなり以前に買って一度読んだけれど、内容を覚えていなかった。印象にも残っていない。なぜ買ったかも記憶にない。
でも最近要らない本の整理をしていたら出て来て、もう一度最初から咀嚼して読んでみようという気になった。
で、結果。面白い。
未知って何かというと、自分がわからない言葉、表現、文章構成、世界観、出来事などなど。これらを頑張って読んで理解する事で、読む力を鍛えましょう、という事。
過去、本屋でタイトルだけを見て面白そうと思って買って、何だか読みづらかったり難しすぎたりして途中で読むのを諦めた本もたくさんある。
日本語訳されている海外のSF小説や、何故だかクラウゼウィッツの戦争論とか、買った理由は分からないけれど、本棚に読み切らずにちょこんと置いてある。
諦めてしまう原因は、単語や文章の構成が頭に入ってこないから。頭に入ってこなければ面白くない。しかしそれは、まるで栄養があるけれども固い食べ物を「食べづらいから」と嫌いになるように僕が避けていただけなんだな。何度も理解するまでガツガツと読んで、その文章を読み直して理解する事が読書百遍。
反面、世の中には簡単に頭に入ってくるけれど全然内容がつまらない本もある。これはスカスカのチョコモナカジャンボの皮だけを食べている感じ。こういう本に慣れてしまった読者を本の中では「オカユ読書」と読んでいる。
僕は本を読むのは好きだけれど、今までは歴史小説だとか戦記物とか時代小説とか、テーマが個人的に受け入れやすく、読みやすい文章の本を多く読んできた。
自分が「慣れた」小説はとっても面白くて読みやすいが、もう少し未知のことをガツガツ読んでやろう、というモチベーションが「読みの整理学」を読んで得られた。今度読みづらい良書を手に入れたら諦めずに読みきってやろう。
もう一つ、面白いと思ったコト。
頑張って読み解いて理解した内容が、本の作者の意図しないものになる結果もあるんですって。そしてそれは作者にとっても意外で喜ばしい結果なんだと。作者が思いもよらなかった別な解釈をされる事で、その作品はまた成長するという事らしい。
今までの読書は、作家の言いたい事だけを一生懸命に理解しようと思って読んでたんだけれど、そうじゃなくてもよい。自分の感じた事を結論にしても良いんだ、と思ったら、読書という世界がもっと自由で広がりのあるものだと再発見した。