すずわん日記

40代でサラリーマンの限界を感じました。これを良い経験として、この後の人生を楽しく豊かに過ごせるように考えたことを書いていきます。

モノを所有する為にかける時間の価値についてふと思った

サービスに課金することの違和感について

スマホのゲームが全盛期で、満員電車の中で人に挟まれながらもスマホを目の前にかざしてパズルゲームに興じている人もいます。

ちょっとは落ち着いた場所でゲームをすれば良いのに、と思いますが、中毒性があるのでしょう。

僕の場合はキャンディクラッシュ等のゲームをたまにやりますが、あまり長続きはしないです。あるプレイ回数でクリア出来ないと、継続する為には課金しなくちゃいけないから。

そのようなネットゲームの課金についてはビジネスモデルとしてすっかり確立してるのでしょうけど、二次元の世界でのキャラクターのコレクションやゲーム継続の為にお金を支払う事にどうしても違和感があります。

 

物理的な所有感に満足をした頃の話

ゲームにお金を支払う行為は、古い考えの持ち主である僕としては「モノを買う=モノを所有する」という事であって、課金をして有料のサービスを受ける事ではない、という感覚がどうしても抜けないのです。

つまり、お金を払ったのであれば、手元にはゲームのパッケージの箱があって、それ以上はお金を払う必要がない。どうしてもそう考えたくなります。

ゲームだけじゃなくて、例えば音楽もそう。

昔、お気に入りのアーティストの最新版CDを買ったら、家に持ち帰ってCDのラックに並べ、そのアーティストの全てのアルバムが全部揃った光景を見て満足したものです。

そして、CDプレイヤーにCDをセットして、トレイが閉まったことを確認し再生ボタンを押す。そこでCDがやっと聞ける。

そういう物理的なモノの操作感と所有感。これが良かった。ファミコンのカセットだって、漫画や本だってそうです。

入手したら触ってモノを並べて満足もしたかったのです。

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しかし、今や本、音楽、映像、ゲームなど、ネットで配信出来る商品は、実物よりコストも入手スピードも早く、実際にそういう僕も、iTunesで音楽を買ったりAmazonでKindle本を買ったりしています。

欲しい、と思ったら一瞬で購入します。

ただし、全ての商品はiPhoneの中。パッケージを手に触れて表から裏からじっくり見ることは出来ません。

そういう事に慣れると、いずれ僕の頭の中も、古い感覚が淘汰されていくのかな。

 

無駄な時間の価値

今、モノやサービスはあまりにも手に入れやすくなっています。

服や家具など電子によるサービス化が出来ない商品でも、通販で頼めばその週には大体入手が出来てしまいます。さらには品揃えが店頭とは段違いに多いので、外出して買うよりも確実に必要なモノが手に入ってしまいます。

その為、今までモノを入手する為に必要だった時間は他の事に有効に使えるようになりました。例えば、買う本の冊数が増えたらその分たくさん読める時間も確保できています。

ただし、時間と共に失うこともあります。

ゲームやCDを隣の街に買いに行く時は、大体友達と一緒に行きました。ああでもない、こうでもないと、くだらない話を真剣に議論して、笑ったり喧嘩してムッとしたりしながら、買いに出掛けて帰ってくるまで、一日中一緒に遊んでいました。そうやって友達との楽しい思い出が共有されました。

1人で出掛けた場合でも、普段は入る事のない店に入って自分が今まで関心の無かった商品を意味もなく手にとって眺めてみたり、ふらりと道を外れて、行ったことのない場所から川を眺めてみたりして、他人といる時とはまた別な自由な感性で、無駄とも言える時間を楽しめました。

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先述した「物理的なモノの操作感と所有感」そして「手に入れる為に経験した時間」も商品と一緒に入手できたモノです。

そしてそれが不便により生じる素敵な価値でした。